開発部だより 第370回
11月も台風一過、神田神保町の古書店祭りも終わり、かなり良い天気となっています。
何気なく使ってはいるが、その意味を知らない諺って、結構あると思うのですが、読書の秋という事で、しばしの間、お付き合い下さい。
「呉越同舟」勝ったのはどちら?
史書に、「越王勾践、呉王夫差を空しゅうす」という言葉があります、越の勝ちです。
越は呉の属国でした、呉王闔閭(夫差の父)の時、越は背き、その戦いの傷がもとで、闔閭は亡くなります。
夫差は復讐を誓い、勾践を会稽山に追い詰めます。
勾践は夫差に許しを請い、これを夫差が受け入れ、勾践の命は救われました。
勾践は、夫差の寵臣に賄賂を送り、帰国を許されます。
が、今度は勾践が復讐を誓います(ここら辺の経緯が「臥薪嘗胆」という諺となります)。
勾践は、夫差が会盟の議(諸侯の盟主の座を争った)を開いている隙を突き、呉を急襲します。
その後も呉越の争いは続きますが、今度は夫差が追い詰められます。
先の事もあり、今度は、夫差が勾践に命乞いをしますが、越の功臣、范蠡の言を入れ、勾践はこれを許しませんでした。
ここに呉は滅びます。
呉越の攻防は、日本で言いますと、川中島の戦いに比すべきものです。
負けた呉ですが、人が居なかった分けではありません。
伍子胥(「死者に鞭打つ」その人です)、孫武(かの孫子です)などの人物がおりました。
しかし、越には文種、なんと言っても、先程名を挙げた范蠡がいました。
呉越の攻防は、范蠡に名を成さしめる為の戦であった、とも言われます。
これらの人物は、皆、「史記列伝」に一章を設けられている傑物です。
何で孫子が居たのに負けてしまったの?越・范蠡のその後、呉越の攻防に興味が沸かれた方には、以下の本をお勧めします。
「湖底の城」−宮城谷昌光、「孫子」−海音寺潮五郎、「史記列伝」−司馬遷
どれも面白いです。
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